2013年11月6日水曜日

読み散らかし書き散らかし 神無月

夏目漱石『三四郎』

夏の始めに東京藝術大学大学美術館で開催されていた「夏目漱石の美術世界展」。「みてからよむか」のコピーに惹かれ足を運びました。展示内容は、小説中に登場するターナーやラファエル前派と呼ばれるイギリスの画家たちの絵、漱石と親交のあった日本人画家たちの絵、漱石の書籍の装丁デザイン、漱石自身の手による南画などなど。加えて、『三四郎』に出てくる原口さんが美禰子を描いた「森の女」と、『虞美人草』に出てくる酒井抱一画のヒナゲシの銀屏風という、小説中に登場するが実物の存在しない絵画を芸大の先生が推定制作するという試みもあり、予想以上に面白い展覧会でした。


実は、漱石ってあまり読んでいない。国語の教科書に載っていた『それから』だったか『こころ』だったか『坊ちゃん』だったかからの抜粋と、家に何故か下巻だけあった『吾輩は猫である』、あと『夢十夜』は確かに読んだけれど、という程度。でも、展覧会のお陰でちょっと読んでみるかという気分になり、今年の読書の秋の口切りに『三四郎』を手にすることにしたのですが、読んだら読んだで、これまた予想以上に面白かった。


「夏目漱石の美術世界展」という企画が成り立つだけのことあり、と言って良いでしょうか、漱石の情景描写は絵画的。例えば、三四郎がヒロインの美禰子に二度目に会うくだり。場所は病院の廊下。

「・・・向を見ると、長い廊下の果が四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上り口に、池の女が立ってゐる。」

薄暗い建物の中、廊下の先の戸口から見える外の昼の明かり。その四角い明るいフレームの中にある若い女性の姿。映画のひとこまにそのまま使えそうな絵になる場面、もしくはそんな瞬間を描いた絵画作品がなかったかしらと思わせる構図です。で、また、物語的にも、その女性が、数日前に別の場所で見かけて見惚れた都会風の華やかな美人だったということで、鮮やかさが上乗せされて感じられます。

そうした情景の描写が、美禰子と二人きりになる場面によく出てきます。谷中から根津界隈を歩いている時に疲れたからと言って草の上に座りこんだ美禰子の隣に三四郎も腰掛け、二人で空の色を眺めるところ。

「たゞ単調に澄んでゐたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る藍の地が消える様に次第に薄くなる。其上に白い雲が鈍く重なりかゝる。重なったものが溶けて流れ出す。何所で地が尽きて、何所で雲が始まるか分らない程に嬾(ものう)い上を、心持黄な色がふうと一面にかゝっている。」

こういう描写にあたると、物語の展開に入り込んでいた意識が、いったんグッと引き戻されて、俯瞰する視点に変わる感じもします。また同時に、主人公が憎からず思っている女性と二人きりになって、うまく会話が流れ出さずにいるなんとなく落ち着かない心持をそこでみせているようにも感じられる、不思議な仕掛けです。

これまで、小説などを読むときには、物語の行方が知りたくて、話の展開をただただ急いで追いかける傾向があったのですが、そんな風に駆け足で読み飛ばしていては、この情景描写のような技を味わい損ねてしまいますね。もしかして、ものすごくもったいない本の読み方をしていたのかも。

それから、何故かはさっぱりわからないのだけれど、『三四郎』という作品については、読んでもいないのに、「明治の文系ヘタレ男子学生の話」だと思いこんでいたのです。いやまあ、確かにそう言う解釈も成り立つ話かもしれません。なんたって、好きな女に「好き」とも言えない男子が主人公。

主人公の三四郎も、相手の美禰子も、傍から見れば明らかにお互いのことを好きなのはバレバレと言って良いくらいなのですが(なんたって、美禰子が肖像画を描いてもらう時に選ぶポーズは、三四郎に初めて会った時の姿)、小説に出てくる場面では、二人とも、決してそれを明言していない。そうした自分の気持ちにはっきり気づいていないのか(恋愛奥手型によくあるパターン)、様々な社会的制約があってそれをさせないのか(三四郎は熊本から上京したてのどちらかと言えば庶民派の帝大生であるのに対し、美禰子は筋金入りの東京のお嬢様)、それともそのほかのしがらみか(美禰子さんはみんなのマドンナ的存在)。そのじれったい様子がじりじり続き、最後に美禰子さんは話の外から現れた男の人と結婚しちゃうのです。「迷羊(ストレイシープ)」という言葉がキーワードのように繰り返し出てくるとおり、悩み多き若者の話な訳ですね。

青春小説にありがちなまだるっこしさではあるのですが、こう考えてやっとわかった、なぜ私がこれまで漱石を読まずに来たか。このぐずぐずした話の進み様がめんどくさくて、「言いたいことははっきりおっしゃい」と説教したくなっちゃうから。情景描写を味わい損ねていたのと根っこは同じ、パンパンパンっと話が進まないのが我慢できなかったらしい。でも面白いもので、それなりに人生経験を積んできたお陰か、こういうまだるっこしいのが人間なのよね、と、今回はそこを楽しみながら読むことが出来ました。

年齢によって本の読み方も変わると言われたりしますが、こういうことなんだ。


東京大学本郷キャンパスにある三四郎池は、この小説にちなんでそう呼ばれるようになったとか。『三四郎』片手にここへ出かける人も多いらしい。私も今度お天気の良い日にでも立ち寄ってみよう。
そういえば、今、上野の東京都美術館では「ターナー展」開催中。来年の1月には六本木ヒルズで「ラファエル前派展。どちらも漱石の小説に登場するものとして、「夏目漱石の美術世界展」で紹介されていた美術作品の展覧会です。これにも足を運ばなくっちゃ。
 
1冊の本からお出掛け範囲が広がることもありますね。これも読書の醍醐味のひとつかな。





Author: 吉原 公美
傾向がないという読書傾向を自認する本の虫。